エアリアルを引退して半年以上が経った。
念の為に言っておくと、今生の別れをしてしまった訳でもない。健康な身体がある以上、誰かに完成品を見せるわけでもなく、自分だけの秘密の日記を書くようにシルクに触ることはあるかもしれない。
実際ロサンゼルスでも気が向いた時に (3週間に1度くらい) エクササイズ程度に遊びに行くことはあるし、日本でもなぜか私に (こんな私に!) 練習や演技構成のアドバイスをして欲しいという酔狂な人もいて、不思議な気持ちでメニューを考えたり、一緒に楽しく練習したりもした。
同棲生活のような以前の関係とは比べ物にならないが、ちょっとした知り合いくらいには付き合っていくのかもしれない。お互い生きていれば、また会うことだってあるのかもしれない。
振り返ってみれば、期限を決めて始めた自分への約束を律儀に守って、共に暮らすのを最後にしてしまったことを悔やむこともできる。
だが、それによって守ることができた (かもしれない) ものや、出口を塞がれたことで逃げ場を失い、強制的に凝縮されていった時間の価値の方が大きいと思いたい。
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例えば人の寿命が85年だとすると、30歳時点では残り日数は約20000日になる。60歳では9000日、80歳では1800日。時間の価値は残された時間の少なさに比例して跳ね上がると想像すると、80歳の時の1日は、30歳の時の1日に比べて、物理的な希少性だけで10倍以上の価値があると言える。
実際あなたに残されたのはあと20000日ですと言われても何も有り難みは湧かないが、残り1800日ですと言われたら急に残り少なく感じてくる。
(しかもそれが平均的に1800日であって、実際はいつ悪い目が出るのかわからないサイコロを毎日振らされると思うと80歳の1日の重さが想像できる。)
さらに最期が刻一刻と近づくにつれ、残された時間の価値は何倍、何十倍といったレベルではなく、べき乗数で表されるような桁違いのものになる。
そして人生最後の1日の時間的価値は、死の瞬間が近づくにつれて無限大に近づいていく。
私たちは日々、1日というあまりに微小な時間を消費して、あまりに巨大な器を埋めていく。だがその微小にしか見えなかった一粒の価値に気がつくのは、有限の器がもうほとんど一杯になった時だけなのだろう。結局人生が有限である以上、私には時間なんてとにかく無いはずなのに。(まあいつもそんなことを考えてたらまともに社会的生活など送れないだろうが…)
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私の場合、色々あってエアリアルの寿命は1年だけと決めていたので、最期が近づくにつれて残された触れ合える時間の価値は巨大なブラックホールのように冷たく重く感じられた。
- このコーチと向き合えるレッスンは、もうこれが人生で最後。二度とやってこない。
- このスタジオのこのシルクをほどくのも、この重たいドアを閉めるのも、これが最後。
- 人前で演技をするという人生最後の一粒も、私はこれで使い切ってしまう。
それを痛感できたから、これで私のエアリアルの寿命が尽きたとしても大丈夫、良い人生だった、と思えるように頑張れたのだと思う。
特に最後の演技の時間の価値は無限大だった。その価値が大き過ぎて、気合いが入り過ぎた結果大失敗をしてしまったのだが。。スポーツはやはりメンタルということなのだろう。100回単位で練習したって、練習と本番って違うもんね。
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それに、エアリアルの呪いにかかるためにそれまでにかかっていた別の呪いを断ち切ることが絶対に必要だったように、新しいことを始める自由は、今やっていることを辞める自由といつもセットだ。
たとえ何年も全力で打ち込んできたことであっても、いつでも辞めることができる軽やかな自由を自分に与えていないと、何か本当に新しい呪いにかかることはできない。
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地上に戻って当たり前のように生活をしていると、空中でスピンやドロップをしていた時の重力との密かな対話も、シルクが体に食い込む痛みと引き換えに得られる浮遊感も、意識の鋭さも、日常の中に音もなく溶け込み消え去っていってしまうようだ。
だが1年間のエアリアルを経験する前の自分と経験した後の自分は別人であり、前のように一緒に過ごすことがなくなった今も、移り変わり続ける私の中に変化を残し続けていく。
これからのあなたの人生に、沢山の新しく始めること、それに伴って辞めるかもしれないこと、そうして感じられる微小なひと粒の時間の無限の価値、それでも見つかる沢山の楽しいこと、美しいものとの出会いがありますように。有限の器から溢れるほどに。
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