真っ赤な真実

自分には当たる可能性があると期待して宝くじを買う数学者もいれば、神や宗教を信じる敬虔な科学者だっているように、人は客観的な証拠がないことや、平たく言えば正しくない (と知っている) ことでも信じることができる。

つまりそれが真実かどうかと、自分がそれを信じて行動できるかどうかは別だということに着目しよう。

だとしたら、エアリアルの上達という利益のために (そして人生で直面する任意の目的のために) 、自分が何を信じて、何を信じないかだって選んでも良いのではないか?
何かを信じるだけでエアリアルがほんの少しでも上手くなるなら信じるし、その逆なら信じない。そんな風に都合よく、人間である自分の非合理性ですら合理的に利用できる者が最高のプレーヤーになる。
我々が普段意識することもなくプレイしているこの人生ゲームでは、全ての信条が武器にも弱点にもなり得る。

例えば「私はエアリアルのトッププロになる」「努力は必ず報われる」、はたまた「私は少しだけ重力を無効化する魔法が使える」なんかは、それが正しいかどうかとは無関係に、心から信じられる限り、信じた方があなたのエアリアルは結果的に上達するだろう。

逆に「自分の年齢ではもう遅い」「週に1回しか練習できないのに、2ヶ月後の大会に間に合うはずがない」「男性の自分には180度を超えるスプリット支持はできない」といった考えは、それが真実であろうがなかろうが、そう信じてしまうことでエアリアルの上達の枷になる可能性が高い。

エアリアルとあなた自身について思うことは各々色々あるだろうが、こんな風に、上手くなるという一点に向けた利益になるかどうかで思想を選別してみるのもいいだろう。その中から、前者だけを信じればいい。
結果に繋がる信条は、別に真実である必要もない。

中には、エアリアルの上達の助けになるのか、妨げになるのか、判断に迷う思想もあるかもしれない。私にとっては例えば、「身体年齢的なパフォーマンスのピークは既に過ぎていて、この後は落ちていく」という解釈がそのひとつ。
これを信じることで、「それでも今が一番若いのだから」と練習への打ち込み方が上がりもすれば、一方で何かがうまくいかなかった時に年齢のせいにした諦めに繋がりやすくなるかもしれない。

ピークはもう過ぎたと信じることが、ピークはまだまだ先だと信じることと比べて、結果的に私のエアリアルのパフォーマンスを1%でも上げるのか、1%でも下げるのか、私にはわからない。
そういったものは、単なる自分の好みで信じるかどうかを決めていいということになるのだろう。その世界観がきっとあなたのエアリアルのスタイルを形作っていく。

以前聞いた死刑囚の教誨士も勤めている住職の話によると、刑務所の囚人でも、運悪く (あるいは誰かにハメられて) 捕まってしまったと自分の不運を呪うものは永遠に救われないのだと言う。一方で、世間から隔離された牢獄に囚われているという機会を利用して、人生を振り返って自己の向上に努めるものは救われるということらしい。たとえ絞首台を前にした死刑囚でも。

私だけでなく誰でも、自分の経験や身体や環境、つまり現実という檻に囚われた囚人なのだろう。しかしその不自由な檻の中でも、どう感じ、なにを信じるかということだけは、自分の自由なのだ。

となると、たとえ正しくないと知っていることでも、それを疑う常識的な理由があったとしても、それでも自分が救われること、自分の目的達成に資することを信じることができるか。
私が、あなたが、この世界で、どこまで信じ続けることができるか。
信じられなくなった瞬間に効果が消え去ってしまう儚い偽薬ですら、運命を掴む味方にできるかどうか。
それが嘘なのか、真っ赤な仮面を被っただけの真実なのかなんて、どちらでもいいのだ。


通し練から始める練習メニュー
私の (大会前の) 毎日の自主練メニュー。 1. (スタジオに向かう途中、音源を聴きながら頭の中で2~3回通し練) 2. スタジオに着いたら、つべこべ言わずにいきなり本番形式で通し練 (&撮影)
プロになるつもりで取り組む他ない
ノーベル物理学賞も受賞した我らがリチャード・ファインマン先生は、カルテックで学部生の講義に臨む際、「この教室にいる学生のほとんどがプロの物理学者にならないことは承知しているが、最も能力のある学生 (将来のプロ物理学者) を基準にして教える」というスタンスを明示していた。つまり、クラスに1人か2人いる将来の物理学者になるような極めて鋭い学生に向けて全力投球するというスタイルを取っていて、それをおおっぴろげに話していた。