安全第一とは良く言われるが、あれは嘘だ。(*1)
なぜなら本当に安全を第一に優先させるならば、火星探索なんて進めない方がいいし、有人ロケットなんて打ち上げない方がいいし、車になんて乗らない方がいいし、エアリアルなんて危ないスポーツは今すぐにやめた方ががいい。
空中でクルクル回転なんかしてないで地上で当たり前のように生きていた方が位置エネルギー的にも運動エネルギー的にも安全に決まっている。自分の部屋からだって出ず、ただベッドでごろごろしていた方が身の安全は保証されるだろう。
だが、部屋に引きこもっている人間には奇跡も運命も幸運も出会いも訪れない。
エアリアルだって、(他のあらゆる人間の活動と同じように) 安全第一を文字通りの絶対信条としていないからできることの筈。そこには安全よりも優先している何かがあるはずなのだ。
つまり、我々にとっての安全第一とは「何かする前に (順序として第一に) 現実的に危険を認識し、不必要なリスクを排除し、それから計算されたリスクを取りましょう」くらいの意味だ。
私たちが取るべきは盲目的な危険ではなく、この計算された賭けのはず。自分の実力の120%をいきなり出そうとするのは単なる算数のできないバカだろうが、かと言って100%を計算だけで埋めてもいけない。99%を冷静に固め、最後の1%をその場の熱量のために空けておく。その1%の隙間にこそ、奇跡や幸運が入り込む余地がある。
そのための99%の準備とは、例えば最悪のケースを想像すること。 決められた手順を省略することなく守ること。 道具の状態を確認し、メンテナンスをすること。
我々エアリアリストがこうして安全の手順を積み上げるのは単に臆病さの裏返しという訳でもなく、未知の領域へ最高速度で突っ込むために、滑走路をどこまでも長く、平坦に整えているような勇敢な準備行為でもある。
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だが、その1%の隙間をこじ開けてしまうような例外も、たまに、本当に稀に存在する。
人間というものは合理的ではなく、どれほど精緻にリスクを計算しようとも、人生の輝きはそういった計算の外にあったりしてしまう。
自分がどこまでも想定できる箱庭の範囲内で、勝算を確認しながら戦う「安全第一」スタイルは、相手に49点を与えても自分は51点取れば良いとする合理的な勝利を与えてくれるかもしれない。地味で守備的、しかし負けにくい、確かな強さが証明された戦術だ。
しかし、我々の心を震わせるのは、しばしば0か100か、斬るか斬られるかという賭けの中に宿る、リスクなんて事前に計算不能な勝負だ。それに身を投じたら自分が一体どうなってしまうのかわからないことが、人生を面白くする。
あるいはリスクを計算するための経験を持たない、未熟な若さがゆえの無策無謀。びっくりする程に思い切りだけはいいヤツ。颯爽と登場し、躊躇なくアクセルを踏み抜くその危うい大胆さ。それは時として計算されたリスクを嘲笑うような独創性を生み落とす。
バカみたいな未熟な無謀と言えなくもないというか、それそのものでしかない筈なのだが、だからこそ色んな出会いを惹きつけ、軽蔑、羨望、否定、肯定、あらゆる矛盾を纏って、奇跡も運命も幸運も不幸も全てを飲み込んでまっすぐに駆け抜けていく。
そう考えると、私たちが日々安全な滑走路を準備するのも、最後にそれを焼き尽くしてくれるような、非合理な情熱を待望しているからという気さえしてくる。
地上25mの高さのシルクからでも手を放し、重力に身を捧げるその一瞬。全ての計算を無に帰すような、美しき誤算に出会うために、我々は今日も安全の手順を積み上げているのかもしれない。
だとしたら、危ないことはしちゃダメだよと口では言い合いながら、単に心躍る方を選ぶことしか、我々にはできなかったのだ。最初から。
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*注1) 私が嘘と言ったのも実は嘘で、この標語は誤解を生みやすい表現だ、くらいの言い方が誠実だろうとは思っている。実際のところ、安全第一の「第一」とは、価値の序列ではなく、手順の序列と捉えるのが自然なのだろう。かつてUSスチールが安全を入り口に置くことで、合理的に危機を脱したように。
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