流れる

手放し率の話にも通じるのだが、シルクに登る前から一目見て特殊な訓練を積んだ人間だとわかるプロのエアリアルを見た時、最も意外に思えたのは、演技の中で実施する技の少なさだった。

あれだけの身体能力と技術があり、難しい得意技も沢山持っているのに、演技の中にはそれほど持ち込まず、技をしていない時間がとても長い。
興行的な派手さには欠けるような、ともすれば分かりにくいエアリアルシルク。もっと難しく派手な技だって持っているのに、なぜこの人は演技に盛り込まないのだろう?
それでもその演技は目を引いた。

ごく基礎的なはずのクライムの、その指先ですら絶えず視線を誘い入れ、技と技の間の繋ぎの、過ぎ去ってゆく一瞬一瞬の姿勢までもが無意味なほどに正確で、かと思えば笑う表情さえシルクと共に酔いに揺らめくようで、ほとんど喩えようもないステージ。

おそらくこれは、精一杯反ってようやく胸を開く人と、どこまでも反れる身体を持ちながら、ほんの少しだけ背骨をほどく人の違いのようなものだと思う。
前者の方が形として大きくわかりやすく華やかに見えるのだが、後者には、まだ使われていない可動域が身体の奥に静かに残っていて、その抑制された余白の方が、むしろ見る側に強い奥行きを感じさせる。全力で大きく広げられた形よりも、広げられるのに広げない身体の方が、秘められた動きがずっと迫力を感じさせてしまう。

そういった、まだ使われていない力の気配を感じさせるように、そのエアリアルにはいかにも余裕が満ち溢れ、高い身体能力と技術の上限近くの華やかさではなく、子供をあやすかのように軽々とできる範囲で行なっているであろう演技は、その余裕が逆に華となり、シルクの中でただ休むという動きさえ極めてスムーズで、刹那刹那が澄み渡って見えたのだと思う。

クラシック音楽の演奏において、ピアニストが成熟するほどに音ごとの衝動は減り、フレーズ全体、ひいては曲全体がひとつの長い線になっていくとBenjamin Zanderが以前話していたように、そのエアリアルシルクの演技もまた、演技の全てがひとつの連続した優雅な線だった。これも (競技コンペではないステージの性格もあるかもしれないが) 技の濃度が低い演技構成だからこそ成り立っていた演出なのかもしれない。

年齢に似つかわしくないこの練磨されたエアリアルスタイルは、決まった型や振付がなく、身体を使って自由に感情やストーリーを表現するコンテ (コンテンポラリーダンス) の系譜から生まれてきたものでもあって、私はきっと、そんな自由さとしなやかさに惹かれたのだろう。あんな風に生きられたら、痛快に違いない。

手放すほど上手くなるというのはエアリアルシルクだけでなくきっと人生も同じで、コントロールしようと力を入れるのではなく、手放し、預け、力を抜いて流れること。それが上達であり、流れに乗る時間の割合を増やしていくことが人生の熟達なのかもしれない。

これは私が、エアリアル (やピアノ) の習熟を通じてというよりも、むしろ特定のエアリアリスト (やピアニスト) の私生活から、それらの人を通じて学んだ視点であり能力なのだと思われる。

しかしだとすれば、この視点や能力ですら、全てが流れる人生の中では、手放していかないといけない記憶になっていく。どんなに頭で納得していても、手放すのには勇気がいる。それでもそっと手放したら、塗り替えて流れていくだけ。

そうと思えば開き直るしかない。流れ続けているのは自分だけという訳でもないのだから。手を放し、いつまでもその落下が続くような人生の中で知り合えることができたなら、同様に忘れ合うことだってできるのかもしれないと考えるのは、なんと夢のあることではないか。


全力尽くしてもダメだったらそれもまた風流
始まりはいつも悪くない。 新しい体験に踏み出した時は全てが新鮮で、私を取り囲む未知の要素は、予期せぬ自分の変化と、これから起こるであろう冒険の予感を否応なく高めてくれる。 アルコールとカフェインと刺激的な人間の外交的な魅力とをまとめて一度に摂取した夜のように、弾ける心臓の鼓動は静まってはくれず、