エアリアルシルクが空中で行われるだけの競技・芸事だと捉える見方は間違い、でなければ不完全だと思う。
一般的にエアリアルシルクはほぼ完全に空中で行われるもので、フロアワークはそれにほんの少しのお化粧をするために (例えば演技開始前などに) 少しタッチしても良い、くらいの舞台が多い。かなり長い尺が許される総合芸術的な舞台では完全にそうとも限らないのだが、特に時間に制限があったり、シルクに特化したソロ作品のコンペだったりするとフロアワークはそもそも採点の対象外だったり、合計で20秒以内、全体の10%以内、など短い秒数指定があったりする。もちろん多くの場合、空中で演技を始めて空中で終わり、つまり全くフロアにタッチしなくても良い。
確かに空中でしかできない表現は多く、と言うかそもそもエアリアルをする時点で空中表現をするのは必然で、エアリアリストにとっても空中は別の自分になるための聖域かもしれない。床の上にいる時の人間は、歩き、視線を返し、観客と同じ高さにいて、あまりにも人間的すぎる。対して布の上の身体はもっと象徴というか何かの概念に近いところがあって、現実の肉体でありながら、少しだけ現実の法から離れたものに見える。
しかし高所は、展望をくれる代わりに会話を奪う。観客のすぐ側まで近づき、表情が変わる瞬間を見て、時には触れ合い、ライブならではの関わり方をするには、シルクの上は遠すぎる。
ともすれば眠たい人生の貴重な一瞬を共に作り楽しむことが目的で、エアリアルはその手段だと捉えるならば、空中の視覚的な神聖さは観客との間近な触れ合いとは引き換えで、上に行くほど会話は細くなっていく。
だから、エアリアルを空中パートだけで完結するものとみなすのは、やはり少し限定的な世界観だと私は思う。
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空中が夢を見て、また夢を見せる場所だとすれば、地上はその夢が観客の現実に触れる場所でもある。だが夢と現実と、どちらが本当なのだろう。
自分がもしまたいつか、何の制限もなく作品を作るなら、孤高な空中パートだけに閉じず、本来交わることのない夢と現実が交わるような、虚も真もなく、過去も未来もない、今という一瞬だけが永遠のように続く、人が人生でごく稀に出会う不思議な現象をイメージして空中とフロアを行ったり来たりする構成を作ってみたい。
そもそも、まるで夢と見紛うほどの魔法を帯びた現実なのか、現実のようにその輪郭に触れられる気さえする胡蝶の夢なのか、そういうことは人生の決定的な瞬間の中にいる時にはうまく言い当てられない。
それでも全てが終わり、時間が経った後で私達は考える。高く空中で踊る我々それぞれの方が現実で、地上で視線を交わし触れ合った我々の方が夢の中の人だったのではないか?
だが真相は複雑に絡まった対のシルクの結び目のようにもつれ、混じり、今ではもう判らない。
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