今のあなたという人間を作った決定的な瞬間の中には、何かの初体験が多くあると思う。
初めて学校に行った日。初めての友達。初めての敵。初めて家族ではなく恋人とお祝いした誕生日。初めて最終コーナーで外側からアンカーを抜き去って切ったゴールテープ。初めてエアリアルシルクを知った時。
誰にだってそういう (場合によっては人生の正史に入れるべきか、あるいは消し去って無かったことにすべきか迷うものもあるかもしれないが) 、その後の自分を変えてしまった色々な初体験がある。
漫画 Death Note には死神の目の取引というシステムが登場し、残り寿命の半分と引き換えに、本来なら見えないはずの人の名前と寿命が見えるようになる目が手に入る契約が行われる。
我々の日常ではそこまで露骨な取引が行われることはないが、それでも人は何かを初体験するたび、かなり似たようなことをしているように私には見える。つまり、自分の残りの寿命を少しだけ新しい経験のために差し出し、代わりに今まで見えなかったものが見えるようになる目を少しずつ買い揃えているのだ。(*1)
例えば私はエアリアルシルクを経験してから、(多くのエアリアリストが揃って共感してくれるように) 高い天井をただの高い天井として見ることはもうできなくなった。
吹き抜けのある建物に入れば、まず目が自動的に高さを測る。梁を見て、荷重、リギング、安全管理を頭よりも目が先に計算し、照明の位置と角度をオートで捕捉する。そこに布が吊れる可能性を拾ってしまう。自分の家の天井だって違う見え方がする目を私は手に入れてしまった。(*2)
スピンをする人間を見るときも同じで、以前ならただ綺麗に回っているなーくらいで終わっていたものが、今では軸の位置や視線の流し方、その人の視界の中で床や壁や光がどう流れているのかまで見えるようになってしまった。
これは知識というより新しい目に近い感覚で、人生は初めての経験を重ね、こういった目を集めていく旅なのだと思う。
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しかし一度手に入れてしまった目を自分の意図で捨てることは極めて難しく、新しい目は呪いの目にもなり得る。
まず、肥えてしまった目は直ちに呪いにもなる。
25mもの高さの舞台でエアリアルをするように、一度自分の目で強烈な高さを知り圧倒的な引力を浴びてしまうと、以後のあなたの人生はその高さとの比較に晒され続ける。他ならぬ自分の目が、世界をそう見せてしまうのだから始末が悪い。観測者としてこの世界の全ては視点でしかなく、煎じ詰めれば、自分がどう世界を見ているかという世界観があなたの世界の全てなのだ。自分の目から逃れようはない。
そして、新しい目を手にいれた時、それは世界をひとつ増やす代わりに、あなたは以前の世界をひとつ失いもする。私は高い天井をただの天井として見る権利を失い、回る身体をただの身体として見る権利を失い、空間や布の意味が変わってしまう目を手に入れた。
しかし極まれば、私たちは洗濯物の絡まりにロックの構造を見て、カーテンの揺れに技の可能性を読み、買い物袋の持ち手が指に食い込む姿にドロップ後のシルクの弾みを見るようになるのかもしれない。何でもなかったものがいつのまにか、吊れるか、巻けるか、登れるか、という問いを帯びてこちらを見返してきて、世界は登れるものと登れないものに二分される。あるいはもっと正確に言えば、登ってはいけないが登れそうなものと、登れそうに見えるが登ってはいけないものばかりになる。
エアリアリストの目にそこまで世界を侵食された経験は私には (まだ) 無いが、とある目を持ってしまったがために、目を持たない人には不思議なほど気が付けない、あらゆる現実の薄っぺらさが微塵に割れてガラスの棘のようになって突き刺さることもある。目を背けなければまともに社会的生活など送れない小さな違和感を、呪いの目は虫眼鏡のように拡大し、無視することを許さず、その目の持ち主を追い詰める。
だが救いもあって、あなたのその目は、人が人生で出会う、一見取るに足らない美しいものも、同様に拡大して捉えることができるということだ。
その最たるものが同じ目の契約が結べる仲間との出会いで、私たちは屋上に寝そべり並んで見上げたなんでもない夜空や、最終電車を待つ駅のプラットホームや、呼吸が止まるような強い風が吹く日の、無表情に見えて色とりどりの無限の表情をちらつかせる一顆の宝石のような煌めきに救われて、世界の奥行きと優しさをその目で共に体験することができる。
このエアリアリストの目もまた、人が人生で出会う多くの美しいものと同様に、取るに足らない、だが決定的な思い出だ。
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*注1) Death Note の死神の目を現実世界の (通常の意味での) 初体験と結びつける目は、もともと私ではなく姉のものである。ティーンエイジャーの頃、私は姉に、好き同士な相手な限りさっさと初体験を済ませてしまえとよく煽られていて、それは一度誰かとそこまで深い関係性を築くとまるで Death Note の死神の目のように新しい目が授けられ、見えなかったものが見えるようになるからだと言われたのを覚えている。姉らしい妙に建設的で遠慮のないアドバイスだったなと思う。
*注2) まあ私はエアリアリストの目とは別に、天井を、理不尽な蓋が悪意をもって可能性を塞いでいると見る別の目も持っているのだが..
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