深夜の練習🗼

深夜に東京のスタジオを借りて、ひとりで練習する時間がとても好きだった。

私が夜半に借りる東京のスタジオは、2つあった。

ひとつは六本木の住宅街の暗がりに、妙に端正な顔つきで佇むスタジオ。
ワイン専門のバーなども並ぶ一角にありながら、そこだけは夜の享楽よりももっと無機質な用途のために掃除された施設のようで、入り口には重たい扉があり、その前には建物の下をくりぬいたような無表情なコンクリートの空間があった。その空間は、誰かを迎え入れるというより、選別するためにある前室のようだった。
紺色の壁に描かれた三日月の上に腰掛けるパフォーマーの絵だけがその箱を詩的なものに引き戻していたが、それ以外はむしろ実験施設の入口に近い。
大通りの喧騒を抜けて急に音の少ない住宅街へ入り、その先でこの扉に辿り着くと、都会はまだすぐ背後で呼吸しているはずなのに、こちら側だけが先に深夜へ到達しているように感じられた。そしてあの重たい扉を開け、飾りらしい飾りもない箱に入るたび、東京の夜から、もう少し冷たい別の夜へ移る感じがするのが私は好きだった。

もうひとつは下北沢の、住宅街の中に突然現れるというより、むしろ道の方が少しずつその存在を隠しているようなホール。
細く折れ曲がった道を進んでいくと控えめな気配で入口が現れ、道路に面した空地の先に小さな階段があり、その下に入り口の扉がある。外は住宅街の静けさの中にあり、駅近くの賑わいの残り香のようなものも届かない。だが長い階段を降りて地下へ進んで行くと辿り着く半円形のホールには、誰もいないにもかかわらず、人の集まる場所だけが持つあの微かな熱がいつも残っている。
移動式の屏風のような鏡、最初はどれがどこに効くのかすらわからない沢山の照明スイッチ、そこで飼われているエキゾチックな動物たち、そのどれもが少しずつこの場所を単なる貸しホールではなくしていた。深夜に一人でそこを使う時、私は練習しているというより、まだ誰も入っていない舞台を先に独占しているような気分になった。

そのふたつのどちらであれ、エアリアルスタジオの深夜は常に少し実験室じみていて、その時間には照明は人を照らすためではなく、検査灯として、シルクの形を正確に抜き出すために設計されたものになる。
日中のスタジオには、どうしても人間の時間が流れ込んでくる。仕事帰りの疲労、次の予定、他人の視線、世間話、生活の匂い。深夜になると、そういう普通の人間の営みとして健全なものが起こす雑音が少しずつ静かに沈殿して、空中に残るものが急に単純になる。布と金具と自分の身体。スタジオはその時ようやく、スポーツ施設でも社交場でもなく、ひとつの冷たい装置になる。私はそういう時間が好きだった。

シルクに触れる前から、既に空気が少し違う。床は昼間と同じ床のはずなのに、深夜にはわずかに硬質に感じられ、マットの輪郭、カラビナの金属音、手に擦れる布の乾いた抵抗、そういう細部が昼よりも鮮明になる。人が減ると物の側がそうやって急に雄弁になり、昼には背景に退いていた器具や床や照明が、夜にはそれぞれ独立した顔を持ち始める。

エアリアルシルクは派手な芸事のように見えても練習をしている側の実際はかなり地味な再現実験の集積で、この角度で入ると布はどちらへ逃げるのか、ここで一瞬身体を抜くと回転軸はどのくらい甘くなるのか、掴む指先を瞬間遅らせた時に見た目の流れはどれほど濁るのか、といったように、条件を一つずつ操作して結果を観察している感じに近い。もちろん対象は自分の身体なのだが、何度も繰り返しているうちに身体は自我の容器というより、癖の多い実験材料に見えてくる。深夜の良さは、その観察が冷たくなることにある。

もちろん深夜だからといって上手くなるわけではないのだが、人間関係から少し離れ、技術とだけ向き合えるあの数時間は、贅沢なものだった。うまくできた瞬間も、できなかった瞬間も、誰かに説明する必要がない。私は上達そのものと同じくらい、深夜の正確さが好きだったのだと思う。多分私はエアリアルにそういう場所を求めていたのだろう。人を酔わせるための芸事としてではなく、自分の身体と物理と執着の関係を、誰にも邪魔されずに調べるための静かな装置として。
深夜の練習が好きだったのは上手くなりたかったからだけではなく、天体観測のように、街の灯りが消え、空気が澄み、陸と海と空の全てが一つの闇に溶け合う深夜の静寂に包まれた密室の中では、自分が何をしたのかが昼より正確に観測できた気がしたから。

ところで日本のエアリアルスタジオでは、夜であっても、深夜であっても「おはようございます!」と元気よく挨拶をする。
初めは皆さん極度の夜行性なのかな? と思ったのだが、ダンスや舞台の世界では夜のレッスンでも挨拶は「おはようございます」が基本らしい。調べてみたところ歌舞伎の文化に由来する伝統のようだが、実験として試しに「こんばんは!」と素直に挨拶してみたら皆さま違和感なく「こんばんは!」と返してくれた。


スピンの研究 3 (エアリアル教材紹介②)
スピンの研究 1 ではエアリアルシルクのスピンがそもそも何で & どうやって作られるのかについて、スピンの研究 2 では構成と演出の視点からどんなスピンを選ぶかについて書いたが、実際の技術習得については我らが @Moodystreetcircuskid さんのこちらの教材も参考にされたい。
消えないものから順に置く (演技構成の作り方)
自分だけのエアリアルシルの演技構成を考え、組み上げていくのは本当に楽しい。 それは技や表現のレパートリーが増えた人だけに開かれる遊びであり、自分が何を見てきて、何に傷つき、何を美しいと思ってきたのかをひとつの演技に向けて引きずり出せる棚卸しの機会でもある。